「即心是仏」は、発心修証=坐禅において現成する(1月17日赤心会)

「即心是仏」は、発心修証=坐禅において現成する(1月17日赤心会)

前回12月の回で「巻七. 即心是仏」を読了。今回は西嶋老師の音声が残っているその最終部分を聴講しました。
「即心是仏」「今この心がそのまま仏/真理である」とはどういうこか。
道元禅師の結論が語られます。

本文
「しかあればすなはち、即心是仏とは発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり」
したがって、今日ただいまの心こそ真実であるというのは、
真実を得たいと思い、仏道修行をして、真実に到達し、きわめて落ち着いた境地に安住する、そのありようであり、そのようにして真実と一体となっている者にあらわれる

「いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。
たとひ一刹那に発心修証するも、即心是仏なり」
ここで「発心・修行・菩提・涅槃」は「発心修証」に集約される。

以下
「たとひ 一極微中に 発心修証するも、即心是仏なり
「たとひ 無量劫に 発心修証するも、即心是仏なり
「たとひ 一念中に 発心修証するも、即心是仏なり
「たとひ 半拳裏に 発心修証するも、即心是仏なり
と、繰り返される。続けて

「しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、
即心是仏をいまだみざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり、
即心是仏を開演する正師をみざるなり」
一瞬でも永劫でも、どんな小さな境地でも、発心修証すれば、「即心是仏」なのだ
であるにもかかわらず、長い期間にわたって発心修証するのは、「即心是仏」ではないというのは、
「即心是仏」ということを、いまだ見ず、知らず、学んでいないのでり、
正しく示してくれる師匠と出会っていないのである。

「即心是仏(いまこの心がすなわち真実そのもの)」
 ”それを知り/サトりさえずれば、それ以上は無用”
というのは、まったくの誤謬
くりかえし、いつまでも、発心修証することが「即心是仏」

「発心修証」とは、正法眼蔵において具体的には、坐禅をさす
「即心是仏」は、坐禅という行いにおいて現成する。

本文結句
「いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。
過去現在未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり、
これ即心是仏なり」
ー正法眼蔵 即心是仏

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